堪え。

えーと。
所詮便所の落書きなんで、以下の文章はまじめに受け取らないで頂きたく。
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映画にしろ芝居にしろ、堪えのない客が多すぎる気がする。
それは「わかりやすさ」のみを提供し続けた、作り手にも責任はあると思うのだが。
そも世論というものは「わかりやすさ」のみを追い求め、その内実を問おうとはしないものらしい。
「わかりやすさ」の内実といえば簡単だ。
“美辞麗句”と“罵詈雑言”である。
“甘いもの”と“辛いもの”の二つしか味覚がないといっても良いのかもしれない。
解りやすいでしょ、この二つ。
それが何を引き起こすのか。西部すすむ(変換できずw)いわく“雰囲気の支配”である。
結果として、“純愛”とか“感動”とか“爆笑”とか、自分の中で定義づけすら出来ていないものの“雰囲気”にひたすら喰い付いて行くという事態に陥るわけだ。
表現者として、誰かに何かを“伝える”努力は放棄してはいけないと思うけど、やはり決定的に“伝わらない”人はいるわけで。
いくら受けが良くても“雰囲気”で作品は作りたくない。
たとえお客の九割にそっぽ向かれても、一割には確実に届く作品を書きたいと思う今日この頃。